神社紹介

(冨士山北口八合目天拝宮鳥居)

由緒

鎮座地

埼玉県川口市桜町3丁目7-20

御祭神

主祭神

大祖参神(造化三神)

配合神

  • 天照大御神
  • 月読之大神
  • 木花開耶姫之神(浅間大神)
  • 宇迦之御魂神(稲荷大神)
  • 日之御子神(大日如来)
  • 別雷之神
  • 歴代教会長之霊
  • 不動明王

沿革

   初代会長(宮司)畑野憲弘

桜ヶ丘浅間神社(神道扶桑教三神教会)は埼玉県北足立郡鳩ケ谷町浦寺桜ヶ丘(現埼玉県川口市桜町)の地に初代教会長畑野憲弘が創立した。

畑野憲弘は幼少期より神仏にたいする信仰心が篤く、成人後名刹(日蓮宗大本山誕生寺、成田山新勝寺)等に奉職、日々の行をはじめ自身の信仰心の醸成に努めた。そして富士山浅間大神の御縁あって富士講総本山「神道扶桑教」の神職となり富士講身禄派「小谷三志」の生誕の地で布教活動を展開していた同地に扶桑教三神教会を設立。その後、昭和15年5月15日大教庁より「大祖参神御神貫御分霊」を授かりそれを機にそれまで関わりをもっていた富士講講社『丸岩講』九代目大先達のほか成田山講社「神成講(後に大三神講)」の大先達兼講元を務め活動を活発化させていった。その後昭和39年7月3日に北口本宮富士浅間神社より「木乃花開耶姫、日乃御子大神御分霊」授与。

憲弘は人望厚く、その霊力と加持祈祷で地元地域の人々はじめ多方面からの参拝者、信徒を悩みから救い大勢の人々に親しまれた。
畑野憲弘(大教正)の帰幽後(没後)、憲弘長男の「畑野仁一(大教正)」がその志を引き継ぎ二代目を継承。参拝者の為の「祈り」に努め多くの信徒を獲得した。様々な事情が重なり、教会を現在の川口市桜町3丁目の一般住宅内に移転。その後50年以上に渡り精力的に宗教活動を続けた。畑野仁一の帰幽後、仁一孫の畑野和裕(権少教正)が三代目を継承。曾祖父、祖父の志を継承し日々神仏の行に努め、2020年5月には大祖参神御分霊鎮座80年を記念して御神前、御仏前の改築を行った。


教会長挨拶

桜ヶ丘浅間神社(神道扶桑教三神教会)のホームページをご覧いただきありがとうございます。
当お社は私の曽祖父が昭和初期に創建しました。神社としてはとても歴史は浅いですが、お陰様で三代に渡り100年近く地域の人々を始め大変多くの御参拝を頂き今日に至っております。

戦後、様々な事情から現在は社殿や境内は無く、一般住宅内の大変小さな神殿となっておりますが、小規模故に御祈祷、御相談は基本的に個別に行います(混雑時には重なる事もあります)ので「気兼ねなく御詣り出来る神様」として、冨士道開祖角行さまの「天地平安、萬人安福」「他の為に祈る」を念頭に置き初めてお越しの方にも安心してお詣り頂けるように親身に対応するよう心掛けております。

また「初宮詣」「七五三詣」「結婚報告祭」なども前もって御予約頂ければ御家族や親族だけで他の人を気にする事無く御祈祷をさせて頂きます。

大小はありますが、人は生きていく中で誰しもが不安や悩みを抱えるものです。それは私たち神主も同じです。不安や悩みを抱え続けるのではなく、ちょっとした悩みでも遠慮なく大神様にお伝えして少しでも毎日を安心して幸せに送れますようご祈念申し上げます。

三代目教会長 畑野 和裕    拝

大三神講

三神教会では扶桑教の祭事と布教活動を主に、「大三神講」として富士講「元、丸岩講」、成田講「元、神成講」の活動を100年近くに渡りしております。その他、京都伏見稲荷大社の講務扱所として稲荷信仰にも携わっております。主な活動としては毎年の冨士山の登拝、講員との浅間神社参拝旅行、正月、五月、九月の成田山新勝寺団体参拝。毎年「初午」前の稲荷講布教活動や伏見稲荷参拝旅行(不定期)があります。

富士講

    富士山頂上浅間大社にて

富士山信仰の歴史は、日本武尊が東征の折に現在の北口を開かれたとされる日本書紀、古事記の時代から、聖徳太子、役行者による登山・開山などの神話伝承が伝えられておりますが、現在に富士信仰の伝統を存続させているのは、藤原(長谷川)角行(1541~1646)が永禄元年(1558)より不撓不屈の修行のもとに北口登山道を開かれ、元亀3年(1572)6月3日、霊峰頂上に立って興された富士道であります。

やがて、藤原角行を開祖に、富士山そのものを霊場とする富士道は確立され、富士山の厳しい自然の中を登山修行し、天地平安・萬人安福を祈る「富士講」が組織されました。 富士講は、江戸時代中期に「江戸八百八町に、八百八講あり、講中八萬人」といわれるほど隆盛し、江戸の町民に深く根付きました。また、富士山に登ることができない女性やお年寄りのために、江戸の諸所に富士山を模した「富士塚」が作られ(現在も各所に残る)など、当時の富士講の習俗は江戸町民の生活風俗に大きな影響をもたらしました。

    富士山五合目開山祭塩加持

このことは、山岳信仰が修験者による修行の場であったのに比べ、富士講は一般民衆が伝統的信仰形態を取りながら山頂を目指したという特異な現象であります。

民衆の登拝を支えたものは、厚い信仰心と豊富な経験に裏付けられた富士講先達(せんだつ)の存在であり、又ふもとでは御神前で大神楽を奏すなど信仰の指導者であり、宿泊所の運営や強力(ごうりき・荷物の運搬)の手配など、講の人々をサポートした御師(おし)の存在でありました。

また、先達が伝えた「山で一番怖いのは雷」「弁当忘れても雨具は忘れるな」「息は吸うよりまず吐き出せ」などの言葉は、知識としてではなく、経験に裏付けられた知恵として、十分現在に通じるものであります。

富士講の歴史上とりわけ意味ある史跡として、八合目烏帽子岩富士山小頂上天拝宮(元祖室)は存在します。日本武尊が登拝の折に烏帽子を置き休息したと伝えられる聖跡であり、富士道(明治15年、勅裁の神道教派として特立し、神道扶桑教に改称)の中興元祖伊藤食行身禄(ジキギョウミロク・1671=寛文11~享保18=1733)が、享保18年6月13日~7月13日の31日間を、一日一椀の水だけの断食修行により六十三歳で即身入定された霊跡で、その御遺体の石棺の上に小祠を建て、身禄堂・元祖室と称されてきました。そこに、富士山頂上金明水脇にあった富士山天拝所をここに移し合せ、富士山天拝宮とし、元祖食行身禄師入定より二百八十余年の今日まで、富士信仰に欠くことのできない重要な霊地として、守り伝えられています。富士山五合目以上に存在する社殿は、頂上久須志神社、浅間大社奥宮と、富士山天拝宮の三ヶ所のみであります。

富士講の精神は、厳しい富士の自然と一体化し、あるがままの環境を受け入れて「生かされている自己を再確認する」ことが目的であります。このことは、最近提唱されている「自然との共生」という理念に近いものであると認識しております。

神道扶桑教公式WEBページより抜粋

成田講

昭和初期の大三神講(神成講)成田詣
昭和初期の大三神講(神成講)成田詣

成田山大三神講は、大正から昭和の初期にかけて埼玉県川口、鳩ケ谷を中心に大きな勢力をもっていた「成田山川口神成講」の先達を務めていた初代会長の畑野憲弘が昭和17年頃(詳細不明)に鳩ケ谷、東京都入谷地区を中心とした「成田山大三神講」を設立。後に川口神成講と合併し最盛期は講員数百人を超える団体参拝を行っていた。時代の流れと共に講員は少なくなったが、その後二代目に畑野仁一、現在畑野和裕が講の活動を継続している。

成田山新勝寺の御本尊不動明王は、真言宗の開祖、弘法大師空海が自ら一刀三礼(ひと彫りごとに三度礼拝する)の祈りをこめて敬刻開眼された御尊像です。この霊験あらたかな御本尊不動明王の御加護で、千年以上もの間、御護摩の火を絶やすことなく、皆さまの心願成就を祈願してきました。御護摩では、お不動さまの御力と僧侶の祈り、そして皆さまの祈りが一体となり清浄な願いとなって現れます。

お不動さまは、私たちの心の迷い・煩悩を取り除き、全ての人を救うため、忿怒のお顔を示されています。また、ご奉仕をする心の大切さを私たちに教えるため、奴僕の姿になっています。右手に握っておられる利剣は「悟りの智慧」を象徴し、心の迷いを断ち切ってくださいます。そして左手に持っておられる羂索の縄で、煩悩を縛って封じ、正しい教えの道へと導いてくださいます。お不動さまがお座りになる磐石は、全ての人を救うため、あらゆる苦難に耐える決意を表しています。お不動さまの広大無辺の慈悲に感謝して、日々お祈りしましょう。

御真言とは、インドの古語サンスクリット語で書かれた仏の言葉を音写したものです。「不動明王御真言」をお唱えされる皆さまには、お不動さまは必ずご利益を授けてくださいます。日々この御真言をお唱えいただき、御霊験をお受けください。

成田山新勝寺WEBサイト参考